映画「Fukushima 50」の試写を見て
東北大震災で起きた福島原発事故を描く映画「Fukushima 50」の試写を見てきました。
あの出来事を思い出す
2011年3月11日のあの日に起こったことを鮮明に思います。
オフィスのPCで見た映像、帰宅困難者で溢れる駅前、あの日は数時間かけて家に徒歩で帰りました。
家の物が散乱するに部屋をそろりそろりと入り、テレビをつけて見たニュース映像。
定点カメラが激しく揺れ、大きな波が押し寄せる。
そして、福島原発の事故。
試写を見た帰りにたくさんのことを思い出して、鑑賞中たくさん涙をふいたのにまた、目が熱くなりました。
映画「わたしは光をにぎっている」を試写の時に中川監督が『映画には“記録”としての役割もある』ということを話していたのを思い出す。
この作品は、震災のすべてを語っているわけではないけれど、あの日のあの時に、命をはり戦い続けた人々の姿とともに震災の記録として残っていくんだろうな。
臨場感と緊張感
迫り来る津波にのまれていく原発施設、流される人々、電源が落ちた暗闇の中でヘッドライトだけを頼りに作業をする姿。
計器の数値に一喜一憂し、命懸けの原子炉建屋での作業など、緊迫シーンの連続です。
原子炉の状態を正確にわかることができないなかで、手探りながらも可能な限り対策を打っていく。
放射能の怖さを誰よりも知っているであろう現場の作業員が、目の前に転がっている死の恐怖と戦っている姿に熱いものを感じました。
また、危険な福島原発の現場にいる作業員と、原発から遠い完全な東電本社の社員とのヒリヒリするやりとりにも、当時の混乱と現場との温度差がよく描かれていて見ごたえがありました。
見えない恐怖
映画「バックドラフト」のように炎があるわけでもなく、映画「バイオハザード」のように見えないウイルスがゾンビとなって具現化するわけでもない。
目にみえない“放射線”を映画で描くのは難しかっただろうなと、作品をみておもいました。
計器を使って被爆量を示したり、作業員の表情や行動でうまく表現していて見事でした。
泣きます
劇場へはハンカチをもっていってください、泣きますから。
福島原発の事故をただ時系列に並べた映画ではなく、そこで戦った人々の勇気を、ある種泥臭く描いていて、そこに人間的な感動があります。
未来がある若手をおもい立ち上がるベテラン作業員の行動や、部下を守ろうと危険に立ち向かう伊崎(佐藤浩市)や吉田(渡辺謙)、危険な現場で生まれる一体感など、グッとくる場面がたくさん。
また、彼らの家族を描くところも涙を誘います。
地震で混乱するなかで原発にいる家族と連絡が取れず不安な日比をおくる妻や娘。
建屋が水素爆発でぶっ飛び、2号機が危険な状態で死を意識する作業員達が、二度と会うことができないと家族に遺書のようなメールを送るシーンでは並だが止まりませんでした。
そして最後の桜並木で吉田(渡辺謙)を思うシーンでまた泣く。
試写でたくさんの人のすすり泣く音が聞こえて増した。
かく言う僕もポロリポロリと。
大切な人を思う登場人物たちの想いが、心の中にどっとながれこんできて涙が止まりませんでした。
映画をみて
重いテーマだけど、とても見ごたえがあり、見て良かったと思います。
当時のことを思い出すと、東電はかなり叩かれていたと思うし、今でも東電に対して複雑な感情を持っている人は少なくないと思います。
“美化”という言葉がこの作品に当てはまるかどうかは難しい。作品が現場にいた人々からの視点で描かれているので、それに対して思う人は様々にいることだと思います。
ただ、あの時、あの危険な場所にとどまり、命をかけて被害をおさめようと戦った人たちがいたことは事実。
もし自分が中央制御室勤務だった、東電本店の人間だったら、福島で生活を送っていたら、当時の総理大臣だったら…、いろいろなことを考えさせられました。
緊迫感のある映像と映画としてのエンタメ性だけではない、様々な意味をもつ作品だと思います。
見れてよかった。
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